伊豆の国市(旧韮山町)ご案内

悠久の時を刻んできた歴史とロマンの韮山町は,歴史上に大きな足跡を残して来ました。北条政子と源頼朝の鎌倉幕府
草創期、伊勢新九郎(北条早雲)の安土桃山期、江川坦庵の幕末期どの時代においてもまぶしい輝きを放っています。

重要文化財江川家住宅

特徴のある母屋は高さ12m余りの美しいカーブの大屋根を支える豪壮な架構で有名であり、土間からその構造を見ることが出来る。邸内の中央に建つ屋敷は鎌倉時代に建造されたもの。
1261年に数日間日蓮聖人をこの屋敷にお迎えし、供養をつくした.この時家屋の修築を行っており、聖人から『この旧家がなお繁栄するように』と自筆の棟札を贈られた。そのご利益によってこの家は700年以上にわたって無事に保たれてきたと伝えられる。1958年国の重要文化財に指定され、その際にそれまで茅葺きだった大屋根は現在の銅版葺きに変更された。1993年に付属する書院、仏間、蔵、門、、塀、神社、及び敷地が重要文化財に追加指定され、2001年4月より、屋敷内と蔵も見学可能になった。

江川家の沿革


江川家は清和源氏の流れをくみ、源満仲の次男宇野頼親を家祖とし、宇野姓を名乗っていた。6代親冶が保元の乱(1156年)に崇徳上皇側について参戦して敗れ、その孫親信が従者13人と共に落ち延びて伊豆のこの地に定住した。
この13人すべての子孫が、現在でも江川家周辺の金谷地区に居住している.親信の子冶信は、この地に流罪になっていた源頼朝の平家に対する挙兵山木判官平兼隆邸討ち入り(1180年)に応じて参戦している。その後鎌倉時代、室町時代と伊豆の豪族としての地位を固め、15世紀の中頃に、当時この地を流れていた狩野川の支流の名にちなんで、姓を江川と改めた。28代英長は徳川家康に仕え、徳川幕府が成立し伊豆が幕府の直轄地になるに及んで、代官としてこの地を統治することとなった。以後明治維新に至るまで、江戸時代の全期を通じて代々徳川幕府の代官を世襲して勤めた。

江川太郎左衛門英龍(坦庵)の業績

36代英龍(1801〜1855)が代官として活躍した幕末の時代は、欧米の列強がアジアの各地を次々と植民地化した時代であった。彼は蘭学を修め、渡辺崋山や高野長英等と交わり外国の社会事情や国際情勢を知り、日本の置かれた立場を深く憂慮した。

幕府に対する沿岸警備の建議

幕末の黒舟の侵略から日本を守るため大砲をそなえつけた所を砲台からとってお台場と呼ばれています。幕府は江戸の防備のため坦庵公の設計監督に従い、品川沖に島を作り台場とすることにし、内海台場とした。品川台場は11作る予定であったが、6島完成し今第3台場と第6台場が残されている。現在お台場公園として親しまれているのは、第3台場である。

農兵による近代的な兵制の建議と訓練 
西洋の砲術の研究と訓練
測量技術の研究と実施   
韮山の反射炉
銃砲鋳造のための溶鉱炉
パン(兵糧としての)最初の製造


香山寺


香山寺は江川邸の前から山側に直線に延びる道の突きあたりで、山木判官平兼隆館はすぐ近くにあります。
 寺の開山は仏乗禅師天岸慧広和尚という僧で、開基は平兼隆の縁者と伝えられ、兼隆の墓もここにあります。兼隆は治承4年8月17日、頼朝に
討たれますが、頼朝は兼隆を手厚くここに葬ったといわれます。兼隆の法号は香山寺殿興峰兼隆大禅定門とあります。当時の寺は幕末の頃火災にあい、堂宇宝物等全て焼失しました。


反射炉
幕末期伊豆の代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)は、国防の重要性を幕府に建議し許可を得て反射炉を築造しました。反射炉とは、銑鉄を溶かし大砲を鋳造する炉です。
 2つの炉を伊豆石で囲み一体としたものが南炉・北炉と2基に別れています。内部は炎と熱を炉の天井で反射させ熱を1ヶ所に集中させて鉄を溶解させる造りだったことからこの名がついた。煉瓦を高く積み上げたものは煙突で、その数は125段から成っています。高さは、煙突と炉を含め約16mあります。韮山反射炉築造の時期は寛永6年6月3日(1853)にペリー艦隊4隻が江戸港沖に姿を現し「泰平のねむりをさます正喜撰(蒸気船)たった4はいで夜もねられず」と、当時の落首にもみえるよう、幕府は勿論のこと日本中をゆさぶった非常のころでありました。ぺりーが来航し江戸の防備が急がれた時西洋砲術指南役であった江川太郎左衛門英龍の進言を入れ江戸湾に砲台を設置する台場を構築した。
 工事は、安政元年6月7日、鳴滝の現在地に杭打を始め同年10月南炉はほぼ竣工しましたが、安政2年1月16日英龍他界のため、三男英敏は父の遺業を継ぎ同年2月11日南炉に火入れを行うに至りました。続いて北炉を築造し安政4年11月その全部が完成しました。以来元治元年まで大小の大砲が鋳造されました。
 反射炉の築造は諸大名(島津・毛利・水戸・鍋島)も、手がけましたが、今日ほぼ完全な形で残されているものは世界で一つここだけです。


オランダの『大砲鋳造法』の原図を忠実に模した大砲
約1500mの距離まで飛んだといわれている。

江川太郎左衛門英龍(坦庵)公銅像

鋳型に流し込まれた砲身をくりぬく工法であったので水車で回転させ一日で30cmほどくりぬきました。

小さい大砲は江川邸で造られた試作品約50mの距離しか飛ばなかった。


蛭ケ小島
永暦元年(1160)平家との戦いに敗れ、危うく殺されそうに成った幼少の源頼朝が平清盛の
継母池禅尼の命乞いによって一命をとりとめた。韮山へ流罪になった頼朝が14歳から34歳
の旗揚げまでをここ蛭ケ小島で過ごした。

平安時代 狩野川はここを流れていた。氾濫によって作られた中州の名残りがいく
つもあって大蛭、小蛭、和田島などと呼ばれていました。現在は1km西に狩野川は
流れている。今は昔の面影もなくのどかな田園の一角の公園にっている。

源 頼朝



天守君山願成就院
当山は天守君山願成就院と称し寺の創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(729)5月15日に創立されたと伝えられるが、文治元年(1189)源頼朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後は二代執権北条義時公・三代執権北条泰時公の三代にわたり、約半世紀の歳月を費やして次々に堂塔が建立され繁栄をきわめた。北条氏の氏寺として繁栄しましたが、室町時代の延徳3年(1491)、伊勢新九郎長氏(北条早雲)の堀越御所攻撃によって寺のほとんどが焼失しており、今日昔のおもかげはありませんが、当時の大御堂・南塔・南新御堂などの遺構があり、付近一帯は国指定史跡となっています。.現在の10倍以上の敷地に瓦塀で囲まれた山門を入ると大きな池がありその池の中島にかけられた橋を渡って参拝するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。                  
しかしこうした繁栄もやがて15世紀末には兵火にみまわれ、しだいに衰運に向かった。室町時代延徳三年(1491)二代堀越公方・足利茶々丸公北条早雲に攻め滅ぼされた際、多くの堂塔が灰燼に帰し、さらに、時移り、戦国時代の末,天正18年『1590』豊臣秀吉の小田原攻めの折り、韮山城攻撃の際、再び兵火に見舞われ、ますます寺運は衰えた。江戸時代宝暦三年(1753)寺の荒廃をなげいた北条美濃守氏貞が仏像等の修理を行い復興に努めた。
寛政元年(1789)茅葺屋根の本堂が再建された.本堂の横にある大御堂には、国の重要文化財に指定されている本尊の阿弥陀如来像のほか、毘沙門天像不動明王像などが安置されているが、これらはずて運慶の作。また宝物館には、政子地蔵菩薩像や運慶の真作を記した銘札などが展示されている。また、本堂の阿弥陀如来像と宝物館の地蔵菩薩像(政子地蔵)は、県の文化財に指定されています。境内には北条時政と堀越御所2代公方足利茶々丸の墓所があります。


成福寺
鎌倉幕府八代執権北条時宗の子北条正宗が父の遺志を継ぎ正応二年五月二十五日(1289)鎌倉より戻り成福時を建立した。
成福寺は願成就院から北へ300mほどのところにあります。この寺は東本願寺の末寺で真宗大谷派に属しています。
本尊は阿弥陀如来です。
本堂西側の築山に、父時宗・母覚山尼・正宗の墓があり、また北条氏歴代の供養塔が現存しています。





本立寺
江川家の菩提寺、伊豆における日蓮宗の根本道場
正門 江川坦庵公のお墓
梵鐘 日蓮上人の像

 江川家累代の菩提寺。伊豆における日蓮宗の根本道場として著名です。日蓮が弘長元年(1261)5月伊東へ配流された際、江川英久は日蓮を配所に訪れ、その宗義をきき、深く帰依し、剃髪して日久と称しました。その孫英盛は永正3年(1506)、江川邸からまど近い現在地に寺を創建しました。このように江川家と本立寺の結びつきは深く、後に増築を重ねて大寺院となりました。境内の梵鐘は北条貞時の室(円成尼)が鎌倉時代東慶寺(鎌倉)に寄進したもので、いつの頃か本立寺へ移されました。二度の焼失により往時の面影はないが、再建された本堂は豪壮だ。本堂裏手に江川家一族の墓所がある苔むした墓石を囲む石柱や足元の石畳は,長い歴史を感じさせ,英龍の墓は子の英敏,孫の英武とともに奉られている。
英龍の死去は1855年、54歳。墓石には「第三十六世源英龍墓」と刻まれている。現在県の文化財に指定されています。




北条政子の産湯の井戸


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