韮山反射炉

反射炉
幕末期伊豆の代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)は、国防の重要性を幕府に建議し許可を得て反射炉を築造しました。反射炉とは、銑鉄を溶かし大砲を鋳造する炉です。
 2つの炉を伊豆石で囲み一体としたものが南炉・北炉と2基に別れています。内部は炎と熱を炉の天井で反射させ熱を1ヶ所に集中させて鉄を溶解させる造りだったことからこの名がついた。煉瓦を高く積み上げたものは煙突で、その数は125段から成っています。高さは、煙突と炉を含め約16mあります。韮山反射炉築造の時期は寛永6年6月3日(1853)にペリー艦隊4隻が江戸港沖に姿を現し「泰平のねむりをさます正喜撰(蒸気船)たった4はいで夜もねられず」と、当時の落首にもみえるよう、幕府は勿論のこと日本中をゆさぶった非常のころでありました。ぺりーが来航し江戸の防備が急がれた時西洋砲術指南役であった江川太郎左衛門英龍の進言を入れ江戸湾に砲台を設置する台場を構築した。
 工事は、安政元年6月7日、鳴滝の現在地に杭打を始め同年10月南炉はほぼ竣工しましたが、安政2年1月16日英龍他界のため、三男英敏は父の遺業を継ぎ同年2月11日南炉に火入れを行うに至りました。続いて北炉を築造し安政4年11月その全部が完成しました。以来元治元年まで大小の大砲が鋳造されました。
 反射炉の築造は諸大名(島津・毛利・水戸・鍋島)も、手がけましたが、今日ほぼ完全な形で残されているものは世界で一つここだけです。


オランダの『大砲鋳造法』の原図を忠実に模した大砲
約1500mの距離まで飛んだといわれている

江川太郎左衛門英龍(坦庵)公銅像

鋳型に流し込まれた砲身をくりぬく工法であったので水車で回転させ一日で30cmほどくりぬきました。

小さい大砲は江川邸で造られた試作品約50mの距離しか飛ばなかった。
反射炉の中



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